「死んでしまったので、陣の外に捨ててしまいました」
と報告があり、可哀想に思っていたその夕方のこと。
酷く腫れあがりむごたらしい有様のイヌが、いかにもみすぼらしく、ふらふらとうろついていたので、
「翁丸かい? こんなイヌ、いたかしら?」
と噂する。けれども「翁丸」と名前を呼んでも振り向きもしない。
「あれは翁丸」だという女房もいれば、「いや、違う」と主張する者もいたので、中宮定子が、
「右近内侍(うこんのないし・女房の名前)ならば見分けられましょう。呼んでいらっしゃい」
とおっしゃったので、右近内侍を呼び寄せた。
「これは翁丸かい?」
とお見せになる。右近内侍は、
「似ていますけれど、これはあまりに酷い有様です。それに誰かが『翁丸』と呼べば喜んで駆け寄って来ますが、このイヌは呼んでも来ませんし。違うイヌでございましょう。翁丸は『打ち殺して捨てた』と報告を受けております。大人が二人がかりで傷めつけたのですから、果たして生きているとは…」
と申し上げたので、中宮定子は心を曇らせになる。
日が暮れて暗くなり、餌をやったけれども食べないので、これは翁丸ではない別のイヌだということにした。
翌朝、中宮定子が髪を整えて顔を洗う際に、手鏡を私にお持たせになってお姿をご覧になる。すると昨日のイヌが柱のたもとに居るのが見えた。
「可哀想。昨日翁丸を酷くぶちのめしてしまったものね。死んだそうだけれど、なんて哀れな。今度は何に生まれ変わったのでしょう。どれほど辛かったことか」
と独り言をこぼしたところ、このイヌが身を震わせて涙をぽたぽた落としたので、度肝を抜かれてしまった。
やはり翁丸だったのだ。昨日は素性を隠して耐えていたのだと、哀れな心地に加えて機知に富んだ振舞いに感心させられる。手鏡を床に置いて、
「それでは翁丸なのだね?」
と尋ねると、伏せの姿勢で大きく鳴いた。中宮定子もたいそうお笑いになる。
右近内侍をお呼びになり「かくかくしかじか」と説明になられると、女房たちも大笑い。その話を一条天皇も聞き及んで、中宮定子の部屋へお出ましになった。
「驚いた。イヌなどでもこれほどの知恵があるものなのだね」
と帝もお笑いになる。
帝に仕える女房たちも話を耳にしてやって来ては翁丸の名を呼んでみると、翁丸は元気に跳ねまわった。
「まだこの顔とかの腫れたところの手当てをしてあげなきゃ」
と言えば、女房たちは、
「あなたったら、とうとう翁丸の正体を見破ってしまったわね」
と笑い合っている。
その噂を聞きつけて、源忠隆が裏の台所のほうから、
「本当ですか。翁丸が戻って来たとは。ちょっと拝見しましょう」
と言ってきたので、
「まあ、滅相もない。そんなイヌはおりません」
と取次ぎの者に言わせたところ、
「そんなことを言って…今後見つけることもあるでしょうに。そうやって隠しても隠し通せるものではありませんよ」
と言う。
こうして翁丸は一条天皇の許しも得られて、元の生活に戻った。
それにしても哀れに思われて身を震わせ鳴き出したことは、なんとも面白くいじらしくもあった。人間ならば人間から言葉をかけられて泣いたりすることはあるが、まさかイヌがそんなことをするなんてね。