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第41段◆鳥は

  〆の一文が上手い

ものづくし自然

鳥は外国のものだけれども、オウムがステキ。人が言う言葉を真似するらしいの。
ホトトギス、クイナ、シギ、ユリカモメ、ヒワ、ヒタキ。

ヤマドリは仲間を恋しがる寂しがり屋なので、鏡を見せれば安心するらしい。無垢でとっても可愛いわよね。ヤマドリのつがいは、谷を隔てたような離れた場所で眠りに就くそうだけれど、それは大層寂しそう。

ツルはとても仰々しい見た目。それでも鳴き声が雲の向こうにまで届くところがスゴイ。
頭の赤いニュウナイスズメ。イカルの雄鳥。ミソサザイ。

タンチョウ
▲鶴はいとこちたきさまなれど、鳴く声の雲居まで聞ゆるいとめでたし。

サギはとっても見た目が見苦しい。目つきなどもまったく心惹かれない感じだけど、「与呂伎(よろき)神社の森で独りで寝てはなるものか」と言って妻を巡って争っているのは面白い。

(※古今和歌六帖・第六「高島やゆるぎの森の鷺すらも 独りは寝じと争ふものを」  ◆滋賀県高島市の与呂伎神社の森に棲むサギですら、夜は独りで寝まいと妻を巡ってオス同士で争うものを)

水鳥の中では、オシドリがとても情緒が深い。雄鳥と雌鶏が互いに交代しながら、羽の上に下りた霜を払うなんてステキでしょ。
チドリもすごくイイ。

オシドリのつがい
▲水鳥、鴛鴦いとあはれなり。かたみに居かはりて羽の上の霜払ふらむほどなど。

ウグイスは詩歌などでも素晴らしい鳥だという扱いを受けているし、鳴き声をはじめ、見た目もあんなに高貴で美麗なのに、宮中で鳴かないのがイマイチ過ぎる!
人が「宮中でウグイスは鳴かない」と言っていたのを、私は「そんなことはないでしょと」思っていたものの、10年くらい待てど暮らせどホントに音沙汰なしなのよ!

でもね、宮中には竹の近くに紅梅が植わったりしているから、ウグイスがやって来ても不思議ではない感じがするのにね。
それで宮中から退出してみれば、身分の低い人の住む家のつまらない梅の木では、うるさいほどに鳴いているんだから!

夜に鳴かないのは、眠くて仕方がないからかしら。こればっかりはどうしようもないけれど。
夏とか晩秋まで年老いた声で鳴いて、つまらない人たちから「虫食い」なんてあだ名を付けられて呼ばれているのは、残念でそぐわない気がする。それもただのスズメみたいに普段から目にする身近な鳥ならば、そんな扱いは受けまいに。ウグイスは春に鳴く鳥だから、こんな目にも遭うのだろう。

ウグイス
▲鶯は詩などにもめでたきものに作り、声よりはじめて様かたちもさばかり貴に美しきほどよりは、九重の内に鳴かぬぞいとわろき。

「新年の朝から心待ちにしてしまうのはウグイスの声だ」というように、風趣豊かな鳥として、和歌にも詩にも詠まれるのがウグイス。やっぱり夏とか秋までではなく、春にだけ鳴くほうが良かったわね。

(※拾遺集・巻一「あらたまの年立帰る朝より またるる物はうくひすのこゑ」  ◆新年の朝から心待ちにしてしまうものはウグイスの声だ)

これは人間でも同じ。人並み以下で、世間での評価が下がって行く人に対して、わざわざ改めて謗ったりしないでしょ? ありふれたトンビやカラスの姿を見入ったり声を聞き入ったりする人が、世の中にいないのと同じことね。

そんなこんなでウグイスが最高の鳥であるとされている以上、夏や晩秋に鳴いて評価を落とす不満足な結果になっているわけ。

ウグイス
▲なほ春のうち鳴かましかば、いかにをかしからまし。

葵祭(あおいまつり・御所を出発した行列が下鴨神社を経て、上賀茂神社へ向かう 。賀茂祭)の帰りの行列を見物しようとして、雲林院(うんりんいん・京都市北区)や知足院(ちそくいん・京都市北区にかつてあった寺院)などの前に牛車を止めていると、ホトトギスも春を我慢できないかのように鳴きだす。
それをウグイスが非常に上手くまねをして、小高い木立ちの中で諸々合唱するようすは、さすがにステキ。

ホトトギスの良さは、言うまでもないわね。
いつの間にやら得意げに鳴き、はたまたウツギやタチバナなどに止まって、見えたり隠れたりもするそぶりには、憎たらしいほどうっとり。
梅雨のころの短い夜に目を覚まし、是が非でも他人より先に声を聞きたいと待機している折、まだ夜の深い時間に鳴きはじめたその声ときたら! 洗練されていて可愛らしくて、まるごと心を持って行かれるくらいの感動モノなのよ。

でも六月になるとホトトギスは全然鳴かなくなる。これもまた説明不要なくらいに素晴らしい。

夜に鳴くものってどれもこれも魅力的。赤ん坊の夜泣きはそうではないけれど。

画像引用:グローバル・ネイチャー・クラブ

ホトトギス
▲郭公はなほ、更に言ふべきかたなし。

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