花を観賞しない樹木といえば楓、桂、五葉松。
カナメモチ(写真参照)は品がない感じがするけれども、花を咲かせる樹木の花が全部散ってしまってどこもかしこも新緑になった中、秋でもないのに濃い紅葉の新芽がつやつやと、思いもかけず青葉の中から見えているのが愛らしい。
マユミの木の良さは、言うまでもないわね。
それ自体は取り立てて褒めるところはないけれど、宿り木という名前には大層惹かれるものがある。
榊は臨時の祭の神楽なんかだと、とっても映えるの。この世に樹木はたくさんあるけれど、神様の御前の木として生えているなんて謂われも凄くイイ。
クスノキ(写真参照)は木立の多い場所でも、他の木に混じって植えられることがない。クスノキだらけの森を想像すると気味が悪いけれど、枝が千本にも分かれている姿を恋に悩む人の千々に乱れた気持ちに例えるのが、誰が枝の数を知っていて言い始めたのかと思うと面白いよね。
ヒノキはこれもまた身近な場所には生えていないけれど、「三葉四葉の殿造り(立派な建物が何棟も建ち並んでいる)」という催馬楽(さいばら・雅楽の種目)の歌も面白い。
「五月は枝から落ちる滴で雨の音真似をする(長潭五月雨含冰気。孤檜終宵学両声)」というのも趣きがあるわね。
楓の木はこじんまりとしていて、萌え出た葉先が赤みを帯びて、同じ方向に広がる様子がイイわね。花もとても儚げで、虫が干からびている様子にも似ていて面白い。
あすはひの木(アスナロ・写真参照)は、近隣で見たり聞いたりすることはない。金峰山(きんぷせん・奈良県)に参詣した人が持ち帰ったりするけれど。
枝ぶりは手で触るのを憚るくらいの荒々しさなのに、何の考えがあって「明日はヒノキ(あすはひのき)」と命名したのかしら。道理に合わない予言だこと。誰に向かってそんな予言をしたのだか、命名者に理由を尋ねてみたくなるファニーな名前だわ。
イヌツゲ(写真参照)は特段の扱いをするほどでもないけれど、葉っぱがとっても細かくて小さいのがユニーク。
栴檀の木。ヤブコウジ。ヤマナシの木。
椎の木。常緑樹はたくさん種類があるのに、なぜか椎の木だけが葉が落ちない例に挙げられるのも面白いわね。
シラカシという木は、山の奥深くに生える樹木の中でもとりわけ縁遠い木。三位や二位の貴族の上着を染める時にだけ、葉っぱを目にするくらいなのよね。
だからステキな木や素晴らしい木として取り上げるほどでもないけれど、葉の裏は年中雪が降り積もったかのように見えてしまう白さだし、素盞嗚尊(すさのおのみこと・日本神話に登場する神)が出雲(島根県)へいらっしゃったことを思って柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ・飛鳥時代の歌人)が詠んだ和歌のことを考えると、非常に心に迫るものがあるわ。
(※人麻呂の和歌は拾遺集・巻四「あしひきの山ちもしらすしらかしの 枝にもはにも雪のふれれは」 ◆「シラカシの枝がたわわになるくらい雪が積もってしまい、山道をどうやって進めばいいのか」のことだが、素盞嗚尊を偲んで詠んだというのは単純に誤りで、清少納言はデマをうっかり信じてしまったのだと推測される)
折に触れて趣深いとか面白いとか思ったものは、草でも木でも鳥でも虫でもおろそかな扱いはできないもの。
ユズリハがふさふさと垂れてつややかに、茎が真っ赤でキラキラして見える姿は、ちょっと品は良くないけれどイイ感じ。
普段の月に目にすることはないけれど、十二月末だけは大活躍する。亡くなった人にお供えする食べ物の下に敷くのに使うのだと考えればしんみりとしちゃうけれど、長寿を願う歯固めの儀式にも使うというのだから、一体これはどういうこと?
古歌に「ユズリハが紅葉するようなことがもしもあれば」と詠まれたのも、頼もしいことだ。
(※夫木抄・雑四「旅人に宿かすが野のゆづる葉の 紅葉せむ世や君を忘れむ」 ◆決して紅葉しないと言われるユズリハの葉だが、旅人に宿を貸す春日野のユズリハの葉がもしも紅葉したらあなたを忘れよう)
柏の木は非常に趣きがある。葉を守る神が鎮座していらっしゃるので畏れ多い。兵衛(ひょうえ・天皇の警護職)の督(かみ・長官)、佐(すけ・次官)、尉(じょう・第三等官)などを柏木と呼ぶのも面白い。
不格好な樹木だけれど、シュロの木は中華風な雰囲気があって、身分の低い人の家に生えている木には見えないわね。