そんな彼らとは全然違って、講師が説法を始めてからしばらくしたころに、先導の先払いの声ののちにやって来て停まった牛車から降りて来る人がいる。
セミの羽よりも軽そうな直衣(のうし・皇族や貴族の平服)、指貫(さしぬき・袴)、生絹(すずし・生糸で織った練られていない絹織物)の単(ひとえ・裏地のない着物)姿だったり、狩衣(かりぎぬ・一般公家の日常着)姿だったり、そんな感じで若くてスリムな三・四人ほどが、お伴を同じ人数ほど引き連れて入って来るのだ。
最初から座っていた人たちも少し遠慮して身体をずらして彼らのために場所を空け、壇上に近い柱のあたりに座らせる。
彼らがかすかに数珠を押し揉みながら説法を聞いているので、講師も晴れがましくテンションが上がったのか、是が非でも後世に伝えられるほどの立派な話をしようと熱が入るようだ。
こういうステキなメンズは説法を聞く時に、押したり転げたり大騒ぎすることがない。額を床にこすりつけるほど大袈裟な聴き方をすることもない。
タイミングを計って退出する際だって、牛車の方を見ながら何かを喋っている姿さえも、
「いったい何を喋ってるのかしら?」
と興味津々になってしまう。
顔を知っている人ならやはりステキだって思うし、知らない人だったらあれは誰なのかあの人なのかと想像するのね。
そうやって皆の視線を浴びて見送られている姿というのも、またこれがカッコいい。
「どこそこで説法があった。八講が開かれた」
などと人が話すと、
「あの人は来ていました?」
「あの人が来なかったってのは、一体どうしたのかしら?」
と毎度こんなことを言い合っているのは、行儀のよいものではない。
確かに説法に一切参加しないというのもどうかと思う。身分が高くない女性だって熱心に聞きに行くご時世なのだ。
しかし以前は徒歩で会場に行く人はいなかった。たまに壺装束(つぼしょうぞく・女性の外出着や旅装束、写真参照)姿で綺麗にメイクした女性はいたけれども。それだって殆どは寺参りの人たちだった。説法を聞きに行く女性なんてのは昔はいなかったのである。
当時説法に出席していた人が仮に長生きして、説法に参加する女性たちを目にしたとしたら、どれほど非難するだろうか。
画像引用:みやじま紅葉の賀(http://momijinoga.jp/)